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寺田屋

 投稿者:竜馬  投稿日:2014年 9月 3日(水)10時45分58秒
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  寺田屋レプリカ  
 

全国龍馬社中九州ブロック大会

 投稿者:一期一会 平川  投稿日:2014年 4月10日(木)18時47分25秒
返信・引用
  ご無沙汰しています。

今年のブロック大会は、熊本の不知火龍馬会が担当して、熊本市内で開催されます。

期日などは、まだ決まっておりませんが、その内に発表されると思います。

都合がよろしかったら参加されませんか。
 

その5

 投稿者:竜馬  投稿日:2012年 3月11日(日)15時16分13秒
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  後年、岩崎弥太郎(龍馬)は三菱を立ち上げ、夢を叶えた。

後年三菱の二代目社長の座は、弥太郎(本物)の弟弥之助に譲ることになる。さらに弥太郎の実子が三菱三代目社長となるのは、龍馬の弥太郎に対するせめてもの詫びであったろう。

もちろん岩崎家には後藤象二郎から説得もし、生活の面倒も保障されていたのである。
龍馬の三菱での実績は、弥太郎の手柄として後世まで伝わることだろう。

後藤象二郎は思っていた。岩崎弥太郎は経理の才は確かにあるが、龍馬でなければあれだけの三菱を大財閥にすることは叶わなかったであろうと・・・。
 

その4

 投稿者:竜馬  投稿日:2012年 3月11日(日)14時57分23秒
返信・引用
  龍馬と後藤は、龍馬の顔など誰も知らない後藤の隠れ屋へ連れて来られた。

後藤は暫らく情報集めに専念した。

後藤の報告に因ると、先年長崎で海援隊と土佐商会の者が写真なる物を撮ったとき、悪ふざけで龍馬と弥太郎が着物を交換して写った。

弥太郎は取引のとき、あちこちに名刺代わりにばらまいたらしい。
それが長崎奉行所から京都所司代へも坂本龍馬の指名手配写真として間違って回ってきたらしい。

後藤はこのまま弥太郎の遺体を坂本龍馬として埋葬したいと言った。

龍馬は反対した。すでに龍馬の名は捨て、変名にて活動してはいたが、弥太郎を身代りになどしたくはなかったのである。

後藤は更に説得する。

「岩崎には申し訳ないが、すでに弥太郎は死んでしまっている。いまさら戻っては来んぜよ。
龍馬が生きていると知った刺客は又襲って来るがじゃ。 わしの調べでは、おんしを狙っているのは幕府だけじゃないぜよ。薩摩も長州も紀州も、又わが土佐の中にも下士の龍馬の活躍を快く思わんやつは沢山おるがじゃ。  今や日本国中、坂本龍馬の生きる場所はない。」

「後藤さん、わしにどうしろと言われるんですろか。」

「坂本、今日から岩崎弥太郎になりや。 このさき藩も無くなる。 そのとき土佐藩をおんしにやる。 藩の借金も丸ごとひっくるめて、新生・岩崎弥太郎にくれてやるきに、それを元手におまんの夢だった世界を飛び回ればいいぜよ。
 

その3

 投稿者:竜馬  投稿日:2012年 3月11日(日)14時27分52秒
返信・引用
  龍馬は軍鶏鍋の材料を買って近江屋へ戻ってきた。

なにやら騒がしい人の出入りがあった。
龍馬が近江屋へ入ろうとしたときに、背後から腕を強く引っ張る者がいた。
後藤象二郎である。

「後藤さん」

「龍馬、生きとったんか、わしはおまんが殺されたと思ったがじゃ」

「何があったのですろ」

龍馬は事の成り行きを後藤からきいた。

「中岡はナマスノのように斬られちょった。もう一人は顔面をザクロのように割られちょって、誰の顔か判別もつかん状態じゃ。 皆が坂本がやられたと騒いどおった。」
 

その2

 投稿者:竜馬  投稿日:2012年 3月11日(日)14時10分39秒
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  その間、近江屋には来客があった。

「中岡先生と坂本先生はご在宅でありましょうか。拙者は十津川の者です。」

侍は龍馬の下僕の藤吉に名札を渡した。
藤吉は近江屋二階の奥にいた中岡に取り次いだ。

一人の侍が部屋へ通された。藤吉は一階へ降りると来客は一人ではなかったことに気付いた。
しかも皆が抜刀している。

二階の侍は軽く会釈をして二人の前に正座した。

「やあ、しばらくでした、坂本さん。」

弥太郎は思った。俺の顔を見て坂本さんと言った。あてずっぽうで言ったのか、それとも俺を坂本と思い込んでいるのか。

「どちらさんでしたかの~。」

弥太郎は客の顔を覗き込んだ。
その時一階で大きな物音がした。

「ほたえなや」

その瞬間、侍は抜刀し弥太郎の額を切り裂いた。
返す刀で中岡へも袈裟懸けを見舞った。更にもう二太刀を食らわせた。

弥太郎は床の間の龍馬の刀ににじり寄った。
刺客は弥太郎の背中を切り裂いた。

中岡も脇差を抜いて応戦しようと試みたが、更に足元や腰を払われ昏倒した。

弥太郎は龍馬の刀を取り、抜きかけたが刺客に鞘の上から拝みうちをされ脳天をかち割られた。
 

もう一つの龍馬伝ラスト

 投稿者:竜馬  投稿日:2012年 3月11日(日)13時36分17秒
返信・引用 編集済
  岩崎弥太郎は京都の龍馬の下宿先近江屋を訪れた。

「龍馬、この金は銃を売った手形ぜよ。五千両ある。」

「弥太郎凄いじゃないかえ。おまんは実に商才があるがじゃ。」

「ワシャこの金はいらん。もっと儲かるはずじゃったが、おまんの大政奉還論を信じて銃を安売りしてしもうたがじゃ。 最後の最後におまんに負けてしもうた。 わしゃ自分の才覚でこれからドンドン儲けるきに、この金は要らん、おまんに全部やる。」

「何を言うちょる。これは全~部、弥太郎おまんが稼いだ金じゃ、大事にしぃ。」

龍馬は同席していた中岡慎太郎に向かって言った。

「どうじゃ、今夜は三人で軍鶏鍋でもつつかんかえ、ちくと材料を買って来るき、弥太郎と故郷の話でもしちょってくれ。」

龍馬は四条通りの鳥新まで軍鶏を買いに行った。現代と違って鶏肉を切り身にして売っているわけではなく、注文を受けてから鳥を絞めて肉に捌くので時間がかかった。
 

龍馬の命日

 投稿者:竜馬  投稿日:2011年12月24日(土)16時37分51秒
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  墓碑の裏には「慶應三丁卯十一月十六日闘死」と刻まれているそうです。

京都府の控え文書「招魂社并墳墓明細帳」には「慶應三年丁卯十一月十六日死 旧高知藩坂本龍馬直柔」とあるそうです。

また「維新勤王志士の祭壇・京都霊山招魂社」には「坂本龍馬直柔、慶應三年十一月十六日、京都に傷死」とあります。

伏見寺田屋のお登勢がつくった位牌には十五日と書き、後から十六日と書き直した跡があるそうです。

※龍馬は十五日に襲われて十六日の明け方近くまで生きていたのでしょう。
江戸時代の習慣として新しい一日が始まるのは日の出からです。
明治政府とすれば夜中の0時が次の日の始まりになるのでしょうから、死亡は十六日と明記するでしょうが、庶民は十五日と思うでしょうね。
 

はじめ君へ

 投稿者:竜馬  投稿日:2011年 7月28日(木)10時24分51秒
返信・引用 編集済
  イテッ~ ツウ ツウ 痛!!

いきなり斬りつけるなよな。
人を殺すにも礼儀があるだろうさ。
まだ死んだ実感が湧きゃしない。

だいたいがよ、お前さん卑怯だよ。
前日俺の命が狙われていますと御注進したのはアンタだろうが。
挨拶しておいて斬りつけるなんざ旗本御家人の真似かよ。

お前さん小太刀の名人だってな。
大刀を右に置いて油断させ、小太刀で斬りかかるなんざ思いもつかなかったぜ。
こっちはピストル持ってんだ。至近距離でもいけると思ったんだがな。
おいらの完敗だよ、まったく。

ところで伊東さんまで殺ってしまったのはどういう訳だい。
仲間じゃなかったのかい。伊東さんに俺の暗殺を知られたから消したのかい。
伊東さんも薩ッポに近づき過ぎたのかね。

慎太には迷惑かけたな。
なんであいつまで道連れになっちまったんだ。
本当はどっちを狙ったんだ。
アンタの立場からすれば、やはり俺か。

俺が生きてればよ、あんなに大勢の人を死なせることはさせなかたのによ。
時代の先が読めねえだよな、アンタらグループは。
 

寺田屋

 投稿者:管理人  投稿日:2010年11月16日(火)09時58分59秒
返信・引用
  ペーパークラフトの寺田屋です。  

閉鎖

 投稿者:おりょう  投稿日:2010年10月30日(土)09時22分23秒
返信・引用 編集済
  JUNEの空と海のページ♪

長年続けさせて頂いた『JUNEの空と海のページ』を
2007年3月をもって閉鎖致します
ありがとうございました




http://sky.geocities.jp/june61c/index.html
 

龍馬像

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 6月21日(月)17時01分31秒
返信・引用
  最新の龍馬の絵です。  

寺田屋

 投稿者:管理人  投稿日:2010年 2月 4日(木)00時03分33秒
返信・引用
  寺田屋の一階に、小生の描いた「寺田屋」の絵を飾って頂きました。  

近江屋

 投稿者:管理人  投稿日:2009年11月22日(日)15時41分48秒
返信・引用
  京都四条河原町醤油屋「近江屋」
龍馬暗殺の現場です。
 

四時軒

 投稿者:管理人  投稿日:2009年10月17日(土)07時19分56秒
返信・引用
     熊本市沼山津にある史跡「横井小楠の四時軒」に小生が作成しました四時軒のレプリカを展示して頂けることになりました。
とりあえず2~3ヶ月間お願いすることになりました。
見学される機会が御座いましたら見ていただきたいと思います。
 

温故知新

 投稿者:管理人  投稿日:2009年 7月 5日(日)10時09分57秒
返信・引用 編集済
  『龍馬は革新か保守か?』

「革新」は古き悪習を壊し、希望ある未来を開く『善』のイメージがあります。
「保守」は古き悪習に固執し、既得権にしがみつく『悪』のイメージがあります。

言い換えれば「革新」はK1ファイターのように『動』でありカッコいい。
「保守」は禅寺の修行僧のように『静』でありダサい。

しかし歴史は「革新」のとき必ず平和と文化が崩され破壊し流血をみています。
ロシア革命・フランス革命・文化大革命そして明治維新などなど。

龍馬は明治維新の立役者ですので、当然「革新」だと思われがちですが、しかし彼は古き日本を粉々にして新しい日本を築こうとしたのではなく、軌道修正を試みたのではないかと思います。
徳川幕府に大政奉還をさせ議会を開き、有能な元徳川官僚なども起用し、新生日本を夢見ていたのだと思います。いみじくも龍馬自身が手紙に書いています「日本を今一度、洗濯いたし申し候」と、決して「日本を新品に」とは書いていません。
『温故知新』の精神で、悪いところは直し、良いものは取り入れる、そして日本の文化は残していく、古来の日本の先人たちがやってきたように。

薩長の「革新」は古き伝統のある日本の文化を壊し、白人の真似をするのが正しいと暴走してアジア諸国に迷惑をかけてしまいました。挙句にアメリカに大敗をして国体を危うくさせてしまいました。
現在アメリカ型資本主義に組み込まれ、仮の繁栄はしているものの、古来の日本文化は壊されてしまいつつあるように感じます。

共産主義が崩壊し、資本主義が行き詰まり、もう一度「日本を洗濯」する時期が来ているのではないでしょうか。
「温故知新」、龍馬は保守型革新ではないでしょうか。
 

信長と龍馬

 投稿者:管理人  投稿日:2008年12月12日(金)12時52分37秒
返信・引用
  日本人が尊敬する「世界の偉人」の中で、常に1位・2位を争うのは、龍馬と信長である。
二人の共通項はなんであろうか、西郷や桂・大久保らや、信玄・謙信とは異なるものはなんであろうか。

それは、その時代の常識では計り知れないものを二人は持っていたということです。

戦国の無秩序の時代であっても、それなりの常識と定石で世間は動いていたのです。
信長は楽市楽座・比叡山の焼き討ち・常備軍・個人戦でなく団体戦・情報の重視などなど、前代の常識を覆していきました。しかし最後に、日本の最大の常識・天皇の存在を脅かす存在になったとき歴史は彼を消し去りました。

龍馬にも似たようなことがあります。彼は学問らしい学問をしていません。
全て耳学です、しかも一流の人物からの。勝海舟を始め、横井小楠や大久保一翁などなど出会う全ての人から重要なポイントだけを吸い取り、自分流に吸収していく。その時の消化剤は才谷屋の商人の血である。なにものにも囚われない心が、どんな偉大な学者や勤皇の志士たちが見ようとしても見えなかった世界が、龍馬には見えていたと思います。
しかし最後は、四民平等の先に見えたものは、天皇の地位をどうするかということです。
歴史はその考えを認めませんでした。龍馬もまた歴史に殺されました。

二人の暗殺には「天皇」という存在が影響したのではないかと思います。
どんな英雄も、天皇の聖域に触れると歴史が抹殺するのでは・・・

http://8918.teacup.com/ryouma5/bbs

 

福山雅治

 投稿者:管理人  投稿日:2008年11月 8日(土)10時03分47秒
返信・引用 編集済
  再来年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』の龍馬役に「福山雅治」が決まりました。
「司馬竜馬」と違って、新しい「福山龍馬」を見せてくれると嬉しいかな。

「福山雅治について」
1969年2月26日生まれ。  39歳  O型  180cm  68kg
長崎県長崎市出身

シンガーソングライター ・ ラジオパーソナリティ ・ ラジオDJ ・ 俳優 ・
音楽プロデューサー ・ 写真家

ラジオでは、ニッポン放送「福山雅治のオールナイトニッポン」毎週土曜日23時30分で嫌味のないスケベトークで人気です。

テレビでは「ひとつ屋根の下」や、最近では「ガリレオ」がヒット作品です。

映画では「容疑者X」が話題でした。

http://8918.teacup.com/ryouma5/bbs

 

龍馬のピストル

 投稿者:管理人  投稿日:2008年10月28日(火)23時39分33秒
返信・引用
  熊本城の焼けたピストルは、明らかに「SWモデル1・22口径」でしたよね。

当方にSWの銃器辞典がございますので、調べてみました。
龍馬が寺田屋で使用したのが「SWモデル2アーミー・32口径」なのです。

お気づきだと思いますが、寺田屋で使用したのが新型(モデル2)で、近江屋で持っていたのが旧型(モデル1)なのです。
わざわざ旧型にしたのは、殺傷能力がなるべく少なく、銃身も短くて懐に入りやすい為と思います。

SW社の銃器の開発は日進月歩で、明治10年西南の役の頃にはモデル1もモデル2も骨董品に近く、明治の軍人将校が携帯するには少し時代遅れのような気がします。

谷干城が、熊本城の火災の時は段山方面の視察で現場にはいなかったと言われていますが、その時谷司令官は大事な「龍馬の形見のピストル」は司令部に置いて行ったと思います。

他の将校達が旧式の銃を持っていたとは思えませんから、やはり龍馬のピストルと思わざるをえません。
 

SW22口径

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 9月23日(火)10時59分47秒
返信・引用 編集済
  龍馬の拳銃(?)発見。

京都四条近江屋の二階より、忽然と消えた龍馬の拳銃。

谷干城が、暗殺現場から龍馬の形見として持ち去った拳銃。

十年後の熊本鎮台司令部の焼け跡から今回発見された拳銃。

もしかしたら、もしかしたら・・・。



140年の眠りから覚め、錆びでボロボロになった拳銃。

一言でも証言して欲しい。
 

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